大江健三郎さんのルポルタージュに「ヒロシマノート」「沖縄ノート」と言うものがあります。
「フクシマノート」と言うものが、出てきて良いと思います。
今朝の北陸中日新聞に、「そうだよな」という記事がいくつか掲載されていました。
要約を紹介します。
フクシマの原発で起きた事故そのものを、非難し論じることは現地に住んでいない私が論じることはたやすいことです。
まるで、芸能人の二股婚約騒動のように・・・・。
1年余が過ぎて・・・・。
現実は、とても複雑な様相を呈してい要るのではないでしょうか?
それは、起きてしまった現実を直視するというつらい認識から始まるからです。
現地で暮らす人々は、人情としてできるだけ楽観的な事故の過小評価へと希望が偏りがちです。
一方、加害者と言う位置付けである、電力会社と国は同じように過小評価へと誘導する方が利害にかなっています。
この「加害者と被害者の利害の一致」こそ、いまのフクシマにおける大きな問題点になっていることを認識せねばいけません。
いわゆる「村の掟」とは、良し悪しではなく集合体の中の「秩序」は優先されるのです。
根本の解決は、正しい選択でなくさざ波が立つことを「排除の論理」で事前にスポイルすることがただしい処置なのです。
権力が、意図的とも思われる無策を、住民に対して行っていると思われることも、根の部分では利害の一致の結果という大きなパラドックスかパロディとしか映らないかもしれません。
すべてが、パラドックスというゆがんだ予測のもとに、実際ある原発すら「蜃気楼」のように景色が揺らいでいませんか?
誰も言わない。
そして、誰もいなくなった。
フクシマの友人は、それを「希釈」と言います。
除染ではなく、薄めてなかったことにするのです。
それは、汚染の拡散を意味します。
原発のリスクコストと生じる便益と言うものを,秤にかけてわずか4~5人の中枢が原発の再稼働の是非を決めました。
「日本経済が危ういぞ、快適な暮らしができなくなるぞ。」
それ以外の比較の仕方はないのでしょうか?
国民が住む国土、水、身体などに万が一また事故がおこればどういう影響が出てくるのか?
原発問題は、一たび興ると「不可逆的」つまり後戻りやリセットが効かない事柄であるとコラムは論じています。
事故によって「失うもの」は恐らくコストに換算できるものは一部にすぎないでしょう。
だから、原発のない不便に耐えるか、原発の利便をとるかと言う選択肢の考え方自身が、間違っているのではないでしょうか?
すでに汚染された大地で、それでも正面から向き合い生きていくということと、短期利潤のために底なしの汚染リスクを感受するのかと言う選択肢も用意しなければいけません。
単純に、赤字国債のような構図とは違うのです。
何故なら、この決定はまだ見ぬ私たちの孫や子供の未来を決定してしまうことに他ならないでしょう。
家内が、最近この手のニュースを拒否しています。
あまりにがっかりで、辛くてどうにもならないから見ない。
が、理由で、無関心と言うことと違うのですが、多くの方と同じで日々の中では楽しいことやスカッとすることの中で暮らしていたいからです。
「追憶」と言う映画は、そんな側面を持った映画かもしれません。
むなしいのです。
しかし、目は反らせないことなのです。
権利を主張するには、義務と責任を果たさねばいけません。
それは、正しい目を事実に向けることではないでしょうか?
未来が、確かに私たちの手にゆだねられていると思いませんか?
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